空中ブランコ乗りのキキ

私は、自分が弱い人間なので強い人にあこがれをもっています。

そのようなことで、子供の頃から、プロレスやボクシング、相撲、格闘技、ボディービルなどに興味がありました。

筋肉隆々の大男が、豪快な技を繰り広げる姿に、羨望のまなざしでテレビを見ていました。

大きいことは良いことだ、力が強いことは良いことだと思っていました。

でも今では、この考えも変わりました。

見かけが強そうでも内面は普通の人間と何ら変わりがないか、逆にとても繊細な人もいると思います。

それと、全てではないですが、プロレスラーや格闘家、ボディービルダーなどが筋肉を増強するために、アナボリックステロイド薬を使っているということです。

ステロイドの副作用は、心臓発作、ガン、精神の不安定など様々です。

プロレスラーや格闘家、ボディービルダーの早すぎる訃報を聞くたびに、ステロイドの副作用が疑われ、とても寂しく思います。

人々に称賛されるためならば、手段を選ばず、それがステロイドという命を削る薬にさえ手を出してしまうのです。

小学生の頃に、別役実 著の「空中ブランコ乗りのキキ」という童話を読みました。この話と、ドーピングをしてしまう人の心境が全く同じなことに色々と考えさせられました。

【空中ブランコ乗りのキキ】

そのサーカスでいちばん人気があったのは、なんといっても、空中ブランコ乗リのキキでした。サーカスの、大テントの見上げるように高い所を、こちらのブランコからあちらのブランコヘ、三回宙返リをしながらキキが飛ぶと、テントにぎっしりいっぱいの観客は、いつも割れるような拍手をするのです。

「まるで、鳥みたいじゃないか。」

「いえ、どちらかというと、ひょうですね。」

「いや、お魚さ。あゆはちょうどあんなふうに跳ねるよ。」

人々はみんな、キキの三回宙返りを見るために、そのサーカスにやって来ました。どの町へ行っても、キキの評判を知っていて、だからそのサーカスは、いつでも大入り満員でした。

「なあ、キキ…。」

団長さんは、いつも言っておりました。

「おまえさんは、世界一のブランコ乗りさ。だってどこのサーカスのブランコ乗りも、二回宙返りしかできないんだからね。」

「でも、団長さん。いつか、だれかがやりますよ。みんな、一生懸命、練習をしていますもの。そうしたら、わたしの人気は落ちてしまうでしょう。」

「心配しなくてもいい。だれにも三回宙返りなんてできやしないさ。それに、もし、だれかがやり始めたら、おまえさんは四回宙返りをして見せればいいじゃないか。」

「四回宙返りを?できませんよ。練習してみましたが、三回半がやっとなんです。ほんとうに、鳥でもない限り四回宙返りなんて無理なんです。」

キキは、人々の評判の中で、いつも幸福でしたが、だれかほかの人が三回宙返 りを始めたらと、考えると、その時だけ少し心配になるのでした。

「その時は、団長さんの言うとむり、四回宙返りをしなければいけないのだろうか…。」

キキは、サーカスの休みの日、だれもいないテントの中で何度か練習をしてみました。でも、いつももう少しというところで、ブランコに届かずに落ちてしまうのです。練習の時には、落ちた時の用心に、下に網が張ってありますが、本番の時には、それがありません。キキのお父さんも、空中ブランコのスターだったのですが、三回宙返りに失敗して落ち、それがもとでなくなったのでした。

「およしよ。」

練習を見に来たピエロのロロが、キキに言いました。

「四回宙返りなんて無理さ。人間にできることじゃないよ。」

「でも、だれかが、三回宙返りを始めたら、わたしの人気は落ちてしまうよ。」

「いいじゃないか。人気なんて落ちたって死にやしない。ブランコから落ちたら死ぬんだよ。いっそ、ピエロにおなり。ピエロなら、どこからも落ちやしない。」

「人気が落ちるということは、きっと寂しいことだと思うよ。お客さんに拍手してもらえないくらいなら、わたしは死んだほうがいい…。」

キキのいるサーカスが、ある港町のカーニバルにやって来た夜のことでした。キキは、サーカスを終えて一人波止場を散歩しておりました。波止場の片隅に、やせたおばあさんが一人座って、シャボン玉を吹いております。

「こんばんは。」

「ああ、こんばんは。ブランコ乗りのキキだね。」

「そうです。今夜の三回宙返りは、見てくれましたか。」

「いいや、見なかったよ。」

「そうですか。おしいことをしましたね。今夜は、特にうまくいったんです。飛びながら自分でもまるで鳥みたいだって思えたくらいなんですからね。」

「みんなもそう言っていたよ…。」

おばあさんは、相変わらずシャボン玉を吹きながら、遠くカーニバルのテントの建ち並ぶ辺りでついたり消えたりしている赤や青の電気を見ておりましたが、急にキキのほうにふり向いて言いました。

「おまえさんは知っているかね?」

「何をです?」

「今夜、この先の町にかかっている金星サーカスのピピが、三回宙返りをやったよ。」

「ほんとうですか。」

「とうとう成功したのさ。みごとな三回宙返りだったそうだよ。」

「そうですか…。」

「その評判を書いた新聞が、今、定期船でこの町へ向かって走っている。明日の朝にはこの町に着いて、みんなに配られる。おまえさんの三回宙返りの人気も、今夜限りさ…。」

「そうですね…。」

「そうだよ。明日の晩の、拍手は、今夜の拍手ほど大きくはないだろうね。」

「でもね、おばあさん。金星サーカスのピピがやったとしても、まだ世界には三回宙返りをやれる人は、二人しかいないんですよ。」

「今までは、おまえさん一人しかできなかったのさ。それが、ピピにもできるようになったんだからね。お客さんは、それじゃ練習さえすれば、だれにでもできるんじゃないかな、って考え始めるよ。」

キキは黙ってぽんやりと海のほうを見ました。しかしまもなくふり返ってほんのちょっとほほえんでみせると、そのままゆっくり歩き始めました。

「おやすみなさい。おばあさん。」

「お待ち。」

キキは立ち止まりました。

「おまえさんは、明日の晩四回宙返りをやるつもりだね。」

「ええそうです。」

「死ぬよ。」

「いいんです。死んでも。」

「おまえさんは、お客さんから大きな拍手をもらいたいという、ただそれだけのために死ぬのかね。」
「そうです。」

「いいよ。それほどまで考えてるんだったら、おまえさんに四回宙返りをやらせてあげよう。おいで…。」

おばあさんは、かたわらの小さなテントの中に入り、やがて、澄んだ青い水の入った小瓶を持って現れました。

「これを、やる前にお飲み。でも、いいかね。一度しかできないよ。一度やって世界中のどんなブランコ乗りも受けたことのない盛大な拍手をもらって…それで終わりさ。それでもいいなら、おやり。」

次の日、その港町では、金星サーカスのピピがついに三回宙返りに成功したという話題で持ちきりでした。でも、午後になると、その町の中央広場の真ん中に、大きな看板が現れました。

「今夜、キキは、四回宙返りをやります。」

町の人々は、いっせいに口をつぐんでしまいました。そしてその看板を見たあと、ピピのことを口にする者はだれもいなくなりました。夕食が終わると、ほとんど町中の人々がキキのサーカスのテントに集まって来ました。

「おい、およしよ。死んでしまうよ。」

ピエロの口口がテントの陰で出番を待っているキキに近づいて来てささやきます。

「練習でも、まだ一度も成功していないんだろう?」

陽気な団長さんまでが、心配そうにキキを止めようとします。

「大丈夫ですよ。きっとうまくゆきます。心配しないでください。」

音楽が高らかに鳴って、キキは白鳥のように飛び出してゆきました。テントの高い所にあるブランコまで、縄ばしごをするすると登ってゆくと、お客さんにはそれが、天にのぼってゆく白いたましいのように見えました。ブランコの上で、キキは、お客さんを見下ろして、ゆっくり右手をあげながら心の中でつぶやきました。

「見ててください。四回宙返りは、この一回しかできないのです。」

ブランコが揺れるたびに、キキは、世界全体がゆっくり揺れているように思えました。薬を口の中に入れました。

「あのおばあさんも、このテントのどこかで見ているのかな…。」

キキは、ぼんやり考えました。しかし、次の瞬間、キキは、大きくブランコを振って、真っ暗な天井の奥へ向かって飛び出していました。ひどくゆっくりと、大きな白い鳥が滑らかに空を滑るように、キキは手足を伸ばしました。

それがむちのようにしなって、一回転します。また花が開くように手足が伸びて、抱き抱えるようにつぼんで…二回転。今度は水から跳び上がるお魚のように跳ねて…三回転。お客さんは、はっと息を飲みました。

しかしキキは、やっぱりゆるやかに、ひょうのような手足をはずませると、次のブランコまでたっぷり余裕を残して、四つ目の宙返りをしておりました。

人々のどよめきが、潮鳴りのように町中を揺るがして、その古い港町を久しぶりに活気づけました。人々はみんな思わず涙を流しながら、辺りにいる人々と、肩をたたき合いました。

でもその時、だれも気づかなかったのですが、キキはもうどこにもいなかったのです。お客さんがみんな満足して帰ったあと、がらんとしたテントの中を、団長さんを初め、サーカス中の人々が必死になって捜し回ったのですが、むだでした。

翌朝、サーカスの大テントのてっぺんに白い大きな鳥が止まっていて、それが悲しそうに鳴きながら、海のほうへと飛んで行ったと言います。もしかしたらそれがキキだったのかもしれないと、町の人々はうわさしておりました。

おわり

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