オステオパシーVSカイロプラクティック 2

前回のブログでは、主にオステオパシーについての説明で終わってしまったため、今回はカイロプラクティックについてお伝えさせていただきます。

カイロプラクティックは、1895年にD.D.パーマーによって発表された医療です。

カイロプラクティック創始者 D.D.パーマー

カイロプラクティックの創始者 ダニエル・デイビッド・パーマー

日本では、法制化されていませんので、アメリカ発祥の整体といったイメージで定着している感じでしょうか。

整体という言葉を使うと、カイロプラクターの方々にお叱りを受けるかもしれませんが、日本国が法的にはカイロプラクティックを認めていない以上しかたがないと思います。

1895年ということは、今から123年も前のことで、正式には1895年9月18日に、カイロプラクティックが発表されたことになっています。

日本の年号になおすと、明治28年になります。 といっても、なかなかピンとこないですよね。なにせ、この当時から今まで生きていた人は現在誰もいないのですから。

この年は前回のブログでも書いたように、アメリカは大不況の真っただ中だったのです。因みに1895年生まれの有名人は、「野球の神様」と言われ、アメリカ合衆国の国民的なヒーローでもあるベーブ・ルースです。

ベーブ・ルース

帝国ホテル滞在中に日本の野球少年と交流するベーブ・ルース。1934

この当時の日本はどうだったのかというと

•4月17日 下関条約(日清戦争講和条約)締結

•4月23日 ドイツ、フランス、ロシアの3国、日本に対し遼東半島の清への返還を勧告(三国干渉)

•11月8日 奉天半島還付条約締結(日清間で日本からの遼東半島の返還、清による賠償金支払いに合意)

この様に、日本は戦争の時代に突入していたのです。皆様ご存知のように日清戦争は、日本の戦勝をもって終結しました。しかし、講和の詔勅が発せられてから、わずか2日後にロシア、ドイツ、フランス三国の駐日公使が、日本の外務省を訪れ、林董(はやしただす)次官に、ロシア公使から覚書を手渡しました。

「ロシア政府は、日清講和条約の中で遼東半島の割譲が、朝鮮の独立を有名無実のものとなし、東洋の永久平和に障害あるものと認める。よって日本政府に対して、遼東半島の領有を放棄するよう勧告する」

この様な強硬な提案でしたが、弱小国日本は、この三国とまともに戦って勝てる力もなく、涙をのんでこの要求を承諾したというものです。これが、後の日露戦争の遠因になったとも言われています。

カイロプラクティックが世に発表された1895年とは、ざっとこの様な年だったのです。

カイロプラクティック発祥の発端となる出来事は、D.D.パーマーの召使であったハーヴェイ・リラードに対するファースト・アジャストになります。

彼はアフリカ系アメリカ人で、D.D.パーマーのオフィスのあるビルの管理人でした。次の肖像が、ハーヴェイ・リラードです。

ハーヴェイ・リラード

ハーヴェイ・リラード

 パーマーがリラードに聴力を失った原因を訪ねると、彼は、17年前に窮屈なポジションを取った際、背骨にボキっと音がして、それ以来、周囲の音をうまく聞き取れない状態になったと言ったのです。
 
パーマーは、リラードの脊柱を検査したところ、椎骨の異常を発見しました。その椎骨のズレを治したところ、リラードの聴力が快復したと、パーマーは述べています。

この時のアジャスト部位が一体どこなのかと、カイロプラクターの間でよく議論になりますが、D.D.パーマーは、胸椎をアジャストしたと述べています。

胸椎? ほんまかいな? といいたいところです。何で胸椎を治して難聴が治るのでしょう。確かに、一ヶ所悪い箇所を治せば、ドミノ理論の如く、全体が修復されるとも言えますが、この理論にはちょっと無理があります。

私が、シオカワスクールの塩川満章先生に教えていただいたお話では、息子のB.J.パーマーが、この時のアジャストを目撃していたそうです。

そして彼は、父親の行ったアジャストは、胸椎ではなく、頚椎2番であったと述べていたそうなのです。

この話の信憑性は分かりませんが、B.Jの言っている方が説得力がある様な気がします。

この当時は、医学界の圧力が強く、もしD.D.パーマーが頚椎をアジャストしたと発表したならば、首は大変デリケートで、危険な部位のため、医学界からの糾弾は免れなかったでしょう。そのために、D.D.パーマーは敢えて意図的に、そして保身も含めてアジャスト部位を胸椎としたようです。

その後も、カイロプラクティックに対する、医学界の圧力は強く、D.D.パーマーや多くのカイロプラクターが、実際に投獄されているのです。

カイロプラクターに対する弾圧については、後で説明するとして、ちょっと引っかかるのは、やはりファーストアジャストです。

う~ん・・・頚椎2番か~

何で頚椎2番をアジャストしただけで、17年間も聞こえなかった耳が聞こえるようになるのか?世のカイロプラクターはこの事に疑問を持ったことは無いのだろうか。

一度損傷を受けた神経は、元には戻らないこともあり、ましてや17年間もの長きにわたって障害を受けていたものが、たった1回のアジャストで良くなるものだろうか?

個人的には、ファーストアジャストの話は、作り話の可能性も否定できません。現にその後のカイロプラクティックの歴史の中で、頚椎をアジャストして難聴が治癒したという事例を私は知りませんし、なぜカイロプラクティックで難聴が治るのかの作用機序も説明は困難です。

ただ、D.D.パーマーは、ファーストアジャストの後に、この画期的な治療法を家族だけの秘密にしようと真剣に考えていたそうです。そして、家族会議の結果ようやく世に発表することになったそうで、この話から考えると、やはりファーストアジャストは真実なのかと思えてくるところもあります。

本当に素晴らしいものでなければ、秘密にしようとは考えませんからね!

とにかく、このファーストアジャストの話は謎です。

次に、カイロプラクティックへの弾圧についてですが、いつの世も新しいものは迫害や弾圧を免れないものです。

カイロプラクター投獄

投獄されるカイロプラクター

この写真の様に、カイロプラクターは、医師会の弾圧を受け、多くのカイロプラクターが投獄されました。

D.D.パーマーも実際に投獄され、$ 350.00に訴訟費用を加えた罰金を科され、罰金が支払われるまで投獄されました。結局23日間の服役後、D.Dは罰金を支払って釈放されました。

カイロプラクティックが職業となっての最初の30年間に、15,000件以上の訴追が行われ、そのうちの約20%が収監されました。

カイロプラクティックだけでなく、オステオパシーも風当たりが強かったと聞きます。

その他にも、ホメオパシーや、ラジオニクスなど様々な療法が取り締まりの対象になりました。

こんなにも大変な時代の中で、ある日本人カイロプラクターが、逮捕され投獄されてしまったのです。

その人は、日本人最初のカイロプラクターで、1907年に外国人として二番目にパーマースクールを卒業した森久保 繁太郎(もりくぼ しげたろう)です。

森久保は1871年に東京で生まれました。彼は貴族の家庭で育ち、1889年に米国に移り、キリスト教に改宗しました。

森久保繁太郎

日本人初のカイロプラクター森久保繁太郎

彼は、1907年に逮捕投獄されてしまいました。

結局は、B.J.パーマーや有能な弁護士などのお蔭で彼は無罪を勝ち取ったのです。

この森久保事件は、カイロプラクティック史において、ファーストアジャストに次ぐ大きな出来事でありました。

森久保の釈放後、同様の裁判でカイロプラクターに対する無罪判決が相次ぎ、その勝率は90%以上だったそうです。

この結果として、カイロプラクティックが全米50州で法的に認められたのです。

この様に、現在のカイロプラクティックがあるのは、日本人の森久保氏の影響が大きいのです。

当時のアメリカで、3000人以上のカイロプラクターが、牢屋に入ったということは、医師会の圧力がどれほど強かったかがわかります。

しかし、その圧力にも負けない信念をもって、日々の臨床に当たっていたカイロプラクターに頭が下がります。

この様な信念を持てた理由はただ一つ、「効果があった」からだと思います。そうでなければとっくに廃れていたでしょう。

そして、下の写真の様に、カイロプラクティックを受けていた患者達も後押しをしました。

カイロプラクティックを支えた患者達

カイロプラクティックを支えた患者達

私がいまこの世界でお仕事ができるのも、この様な方々の努力のお蔭です。このご恩に感謝するとともに、少しでも皆様の健康に寄与できればと思っています。

 

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